Wednesday, May 03, 2006

巨大なおにぎりと空の米びつ

表題が「一休さん」の週替りの題名みたいですな。「鎌倉将軍と虎屏風」来週も又見てね、みたいな。

二人の女性の話を書きます。一人は私の16年来の友人。一人は唯の知り合い。

日本に住んでいるその友人と数年前電話で話をしていたのですが、テレビ番組で松任谷由美が視聴者から応募された川柳を読む番組があったそうな。

ちなみに川柳と俳句の違い判りますか?どちらも五七五なのですが、川柳には季語がなく人間の心の機微を面白しろおかしく詠ったもの。「居候三杯目にはそっとだし」なんてのが、川柳です。俳句は五七五の中に必ず季語を入れて詠むもの。「起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな」。この場合「蚊帳」が季語となっていまして、この俳句の意味は「蚊帳の中なんてものは、狭苦しいものだと思っていたけど、いざあの人がいなくなると、寝苦しい夏の夜、何度も目が覚めるにつけ、広々と感じるわぁ」ってな感じの意味でしょうな。これが俳句です。閑話休題。って、このブログ自体閑話だらけか?

で、松任谷由美が選んだ川柳にこんな感じのがあったとさ。「ともだちが不幸になったちょっと幸せ」みたいなのね。このまんまじゃないですよ。なにせ数年前の話だし、だけど意味としてはこれで当らずとも遠からず。そこで私の友人が言ったのです、すごーくよく判ると。彼女はまあ宇宙のどこかに巨大な幸福のおにぎりがあって、皆でそれを分け合って食べてるいるんだみたいな幸福・不幸観をもっているのかな。いくら巨大でも物質ならばいつかはなくなる。しかし、しかーしですよ、友達が幸せになっても、それで自分の分の幸せが減るわけじゃなし、不幸になってくれたらその分自分の不幸を食べてくれたわけじゃなし(こっちは巨大な不幸のおにぎりね)。優越感と幸福感は一緒には語れないですよ。

もう一人の唯の知り合いの女性の話。ただただもうもの凄く自己中心的な人でしたが、ここで悪口を書く気はありません。数年前に数週間振り回されただけですし、私も心の整理がだいぶとついたので。で、その彼女がおっしゃったのには、彼氏欲しいねと。欲しいすねって答えると、すかさず「私の場合は昔すごく男に幸せにしてもらったので、もう幸せ使い果たしちゃった」と。彼氏がいないって事を素直に認めず、幸せにしてもらう分量使い果たしちゃっただけよということですね。つまり生まれ持っていた時の幸せの大きな米櫃がもう空か、空に近いってことですかね。私の友人の幸福・不幸観との違いは、彼女は一人一人おにぎり作るための米櫃持っていると思っているとこですな。ここにも誰とも何も分けあえない彼女の悲しさがあるのですが。

さてさて、二人に共通しているのは、幸福物質論・幸福定量論なんですね。いずれにしても外にある。巨大おにぎりの大きさはどのくらいでどいつがどのくらい食べれるって誰が決めたのですか?米櫃の大きさはどのくらいで中にどのくらい詰まっているって誰が決めたのですか?神様ですか?米屋のおっさんですか?自分ですか?

敬愛する友人諸兄よ、幸せの分量を誰かに決めてもらいますか?それとも心の中にありますか?

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